勇哲.洋子のポートフォリオ パート3 から 2016.1.公開 幸福な家庭を築く信仰と社会で活かされる宗教とは musick v.a.2クラシック 2


2015.3.福岡県築上郡築上町綱敷天満宮へ梅園を見に行きました。広い庭園に数100本の紅、ピンク、ホワイトがあり香りは最高です。その天満宮は家から15分、そばにスターコーンFM局があったり、アグリパークや築城航空自衛隊基地があるので散歩に不自由しないですね。

日本の信仰文化は神から始まった  その思想文化を新しい文明社会に活かす信仰とは











 2016 bP

日本信仰文化から始まった

 
その思想文化しい文明社会かす信仰とは 3

2016年お正月、あけましておめでとうございます。今年も皆様が、ご多幸に恵まれますよう心から祈念申し上げます。

さて、私達の庶民文化では、お正月は家族で神社参りすることが普通にあります。
祖父から手を携えてもらい、ヨチヨチ歩きしながら、家族で初詣することが昔から引き継がれる私達の年頭行事でした。

今年は娘夫婦が、お正月前から帰省することで、なぜかウキウキしている私達夫婦です。それに可愛い孫娘と遊べることを楽しみにしているのが幸福なのでしょうかね。
そのような楽しみを持てるシニア夫婦は凄く幸福です。

その上で、私はアットホームな夢をいつも追い求めていますから、出来る限り、親戚、身内、お友達それぞれに声掛けし、楽しみを共有できることをアクションプログラムし、できるだけ多く社会に出ることを考えますから引きこもりはしません。
                  
さて、私のプロモーション、思想を前置きしましたが、物事を前向きに考え、現実を直視しながら今の自分の立ち位置を考えます。その上で「何をするか!!」「何をしないといけないのか!!」をストーリーとして計ります。
出来ること、出来ないことを区別しながら、出来ることを増すプログラムをします。


アクションプログラムは、すでにストーリーが決まっていますから、現実に置き換えて少しずつプログラムを消化してゆきます。
それが毎日毎日のアクションであったり、一年間のプログラムであったり、一生かけてやるプログラムでもあります。
もちろん、その行動計画でミスしたり、挫折したりしますが、それは修正すれば済むことで、目的に対して少しずつ、一歩ずつ、前に、前に進んでゆくことが大切。

しなければ悔いが残り、挫折感を味わいますから、出来ることを、出来るだけ一歩ずつ、一歩ずつ、前に、前に進めること、これが大切。

このことを信念とか、忍耐とか言いますが、私は苦しみがキライですから、より以上の事はしません。
しかし、ストップした事は仕方ありませんが、変わりに追い求めること。
ロマンとか夢に近づける為、ストーリーの頂上を登る為に、いつも前に、前に、を考えます。

                   
自己のハートは、自分の考えであり、その想いは私しか知りません。
相手の、他人のハートは分かりませんが、例え善人であったり悪人であったりしても、その人のハートを読むことは出来ません。
心の奥底で、その人がどんなハートを持っているか、行動とハートは、いつも一体になっている分けではありませんから、人間の考え、思想、ストーリーは、全くもって分からないと想います。

私だって、いつ何時、何をするか分からない。
でも、いつもそばに優しい人が付いているとか、父母、兄弟、親戚、仲間、友人、ご近所、社会が身近に感じられ、その中で私が溶け込み、幸福なライフワークを皆と一緒に楽しんでいることを考えたら、今、私が何をすべきかを現実にとらえることができる、とても悪いことは出来ない、そう想っている人々が70億人、地球上で生活しているのですね。

                    
分かりきっているような文章を書いている私ですが、昨年、始めて町内から敬老祝いの紅白の饅頭を頂いた65才です。
正直、私は60才まで生きられるとは想ってはいませんでした。学生時代から人生50年と父から言い聞かされていましたし、戦国時代の武将、織田信長も人生50年を舞った歌詞もあります。
その上で父が教えた言葉の中には「50年の人生で何をするか!!」です。
社会の為とか、家族の為に、というのが普通なのでしょうが「信仰に生きる力をもらえ!!」と言うのです。
「死ぬまで信仰心を燃やし、亡くなった先の往生を見れ!!」と言うのです。


子供とか学生のときは、それが本当なのかと想う気さえありましたが、社会の中で、たくさんの人々とコミュニケーションし、家庭を持ち、子供を育てる環境に入ると、もう父の想いは完全に消去されました。
浄土真宗を極めた父の信仰心は30年続きましたが、最後は大好きな洋子ちゃんと涙目で去りました。

                   
私が社会人となり、たくさんの人々とコミュニケーションできる環境になります。
生きる為の仕事、糧を得る為、会社の中で猛アピールします。これも先輩、師匠、社長ご夫婦に支えられ、家族を持つきっかけをもらいました。


◎社会人になる為の第一ステージは、会社人間になること。その上で会社経営者のハートを射止め、リーダーシップを発揮すること。

第二ステージは、家庭を持つこと。安定した糧を得て、妻と子供を育てる。

第三ステージは、家族を守ることをしながら、父、母を大切にし、親戚兄弟との関係をしっかり築く。そして社会で出来ることを皆でアクションプログラムする。

第四ステージは、社会奉仕を夫婦と共同で行う。若者を育てる、応援するハートを持ち、出来ることをする。

第五ステージは、社会に迷惑をかけない生き方、そして死に方をする。その為のライフワークをイメージさせ、ご近所づきあいを行う。
                    
私の性格は、母方の祖父、牛島栄六に良く似ていると言われました。
母の祖父は、今の佐賀県鍋島藩、家老をしていた牛島家の親族で、今でも、その重責が残っています。その祖父は戦後、北九州市小倉、守恒で酪農、農業、畜産業を築きました。私は、その家の初孫として生まれました。それだけに父が経営する畳店を継ぐことを求められましたが、決してありえない現状でもありました。詳しくはホームページ、牛島家をご覧下さい。

その牛島家は臨済宗を主とします。
これまで母方のご親戚、佐賀県牛津町、牛島家ご本家からお寺参りしているのですが、重い歴史を感じる居場所でした。

その中で武家というイメージをプラスして、明治から大正、昭和にかけて目まぐるしく戦争をかき立てた人々の多くは、その武家の子孫達でもあります。

太平洋戦争、沖縄戦で最後の司令官だった牛島中将も親族であり、祖父の兄弟4人も太平洋戦争で亡くなり、ご親戚筋の多くの方が、このお寺参りで亡くなった事を知ります。生き残った祖父も戦艦「長門」に乗艦していましたが、たまたま佐世保港で修理ドック中に終戦になったことで命を永らえたと言っていました。

そのような戦争遺品から武家時代のヤリとか種子島銃などの、ご先祖様のものが祖父の家にあったことを覚えていますが、そのような先祖様を称するお寺が佐賀平野には、たくさんあることを私は知ります。

                    
社会人となり24才まで実家から通勤していたのですが、このときご近所の海老根さんご夫婦から熱心に創価学会勧誘に勧められました。父が浄土真宗をしていた頃ですから、この二人はいつも犬猿の仲です。宗教論争をしょっちゅう家でやっていましたが、どちらも白熱して面白い話しがたくさんあります。
その中で若者が多く活躍する創価学会青年部の会議とか集い、などに数度お邪魔することがありました。

創価学会は今の公明党になりますが、若者の多いのには圧倒されますし、何より学生がすごく多く、今風の宗教集団でもありますね。私的には、この場で活躍できるステージがありましたが、基本的にはお金が絡み、選挙とかボランティア奉仕のハートがなければ無理なようでしたからヤメました。しかし、釣り仲間とかご親戚の牛島博さん(亡)ご夫婦とのお付き合いで、選挙前には随分お手紙、お電話を頂きました。この事で遠くにいてもコミュニケーションができる立ち位置がありました。
                    
私の大先輩として今でもお付き合いしている藤崎好夫さんは印刷会社からつながる釣り仲間ですが、妻となる洋子ちゃんとの繋がりもある大先輩ですから、家族と家族のお付き合いを今だにしています。そのエピソードはたくさんありますが、ホームページ「世界にたった一つの花」その中の「釣り人の命」をご覧下さい。
ここで紹介したいのは藤崎さんが信仰する天理教です。その教会が若松にあり何度か通ったことがあります。それも洋子ちゃんと一緒です。


色んなエピソードが、この天理教、山手教会にあります。お世話になった釣り仲間の力丸嘉雄さんも、ここの信者ですし、たいへんお世話になった方です。その教会、雰囲気も神式スタイルでカッコイイと私は想います。山手教会会長の池田さん、その息子さんが我が家に数度来て頂いたことがあります。そのぐらいお世話して頂ける力強いパワーをお持ちのご親族です。
その天理教を信仰する藤崎さんは、ご両親、兄さんが直方教会長を勤めるほど熱心な方で、アメリカ、ハワイ洲にもご親戚が教会を営んでいるそうです。その、おば様とお会いしたことがありますし、宗教は世界ワールドのお付き合いができるのですね。
                    
さて、私が24才、洋子ちゃんが19才で結婚しますが、その前の2年、交際期間がありました。この間は浦本家と上瀧家の深い絆関係が若者達によって結ばれます。
私と洋子ちゃんの関係で、双方の兄弟5人が釣り仲間として、あるいはその両親を巻き込み、楽しい幸福な時間を共有したと私は想います。詳しくはホームページ「上瀧勇哲、洋子のポートフォリオ・パート1」「パート2」「パート3」をご覧下さい。

その交際期間中で、もっとも意識したのが洋子ちゃんのお母さんを支えていた、西野寿おじいちゃんです。お父さんのいない母子家庭の中で、父親以上に家族を大切にした寿おじいちゃんは、私のプライベートの中で大きな教えを乞いました。

若いとき、三菱鉱業株式会社の経理営業をしていた方で、世界中を駆け巡った商社マンでもありました。その方が、洋子ちゃんのお母さんが勤める会社の上司として、あるいはご近所から繋がる世話好きのおじいちゃんとして、なぜかしら子供達の面倒を見てくれる親代わりとなった方です。私が始めて寿おじいちゃんと会ったのは、洋子ちゃんと初デートするときの訪問でした。
玄関前で「早く帰っておいで」 そして洋子ちゃんが「行ってきまーす」
その後、浦本家でご馳走になったり、釣りたての魚を持って行ったり。又、洋子ちゃんのお兄さんとも釣り仲間でしたから、私達5人兄妹弟は魚釣りからキャンプ等々で遊びましたね。まだ10代から20代になったばかりの頃でしたから若者が出入りする寿おじいちゃん家は大歓迎でした。

その、お爺ちゃん家には床の間横に神棚があります。西野家は代々神式で、行事もなぜかしら明るく、めでたいお祭り気分になれます。

その西野寿おじいちゃんから私は、たくさんの事を学びました。それも人と接するコミュニケーション力、考える力です。自己PRすることから、人を正す、人を諭すパワー、あるいはサポートをしながら社会人として生きる、接客マナーを、寿おじいちゃんを見ることで覚えました。そのことで洋子ちゃんとか、お母さんから「寿じいちゃんに良く似ている」と言われます。その、なり振りを真似るのでなく、8年間おそばで遊んで頂きましたので、このような方も居るのだと想いましたね。
その寿おじいちゃん、私と洋子ちゃんに「遺言書」と「慈母観音像」を残してくれました。詳しくはホームページ「慈母観音像様」をご覧下さい。
                     
西野寿おじいちゃんのご先祖様は長崎県北松浦郡、平戸城にあります。本来、西野家は城主、松浦家の側室方の家系ですが、ご本家は玉置家で、城主の蘭学師藩(教師)の役目でした。
三兄弟の次男が西野家を受け継ぎ、ご本家筋は佐世保市の針尾小学校、校長先生などで引き継がれますが、そのご子息の多くは長崎市内です。
その中で西野寿おじいちゃんは7人兄弟の三番目。長男は東京で株式会社経営者で跡を継がれているそうですが、その末男が見明家に着くことになりました。その見明直雄さんが洋子ちゃんのお母さんの再婚相手となりましたから、今度は私達が頻繁に見明家に遊びに行くことになりました。

長崎県大村市に住む見明直雄おじいちゃんは昭和15年に台湾高雄で高雄神社を創建し、日本軍の植民地支配の一役を担うことになりましたが、戦後、実家のある大村市に帰り、大村神社などの神主として神迎されます。そのとき二人の子供を産んだお母さんが亡くなり、洋子ちゃんのお母さんが再婚で大村市に住むのです。そのことで、お母さんが巫女さんになり、神式の結婚式など、たくさんの祭典をされたそうです。詳しくはホームページ「見明ツタエ・ポートフォリオ」をご覧下さい。


私達と見明家を取りもつお母さんのご縁で大村神社さんや、昊天宮など、大村市内の神社を訪問するのですが、みんな見明家と繋がっています。代々、見明家は神様を司る家系なのですね。
                    
私が住む須佐神社とか、北九州市小倉南の妙見神社などは、その地域の民が氏子として支えている神社ですが、上手に民とお付き合いできていない神社は消えてゆく社会環境が、あっちこっちにありますね。
お寺さんも同等にしてありますが、田舎町では、より一そう厳しい現実があります。
それは檀家が少なくなったり、若者が都会に出ることで古びてゆくこと、そして若者を諭す新しい信仰が生まれることで社会の変革が生まれます。
オウム真理教とか、○○とか、やましい宗教にハマる若者が多くなるのも、今の社会文明のひずみに落ちこぼれた、人々の受け皿となったことでしょうか。


宗教は明日の未来を輝かしいものにする、人間欲でなくて人間愛を、もっと、もっと追究した宗教でありたい、と願うのは私だけでしょうか。

                    
可愛い孫と一緒に食事をとるとき、ミータン()が声を出して、「ご一緒に、手を合わせ、頂きます」します。皆さん始めましょう、人々に感謝、社会に感謝、自然に感謝、そして私達の糧となった命に感謝したいと想います。

                    文責 大和三郎丸  (上瀧勇哲)

   
       幸福な家庭を築く信仰と社会で活かされる宗教とは

     北九州市小倉北区足立山ふもとにある・妙見神社
北九州市小倉北区足立山ふもとにある妙見神社は昔、上瀧家は氏子としていました。
その居場所は子供の頃からの遊び場として、野イチゴ、アケビ、タケノコ、山芋取りから、広い忠霊塔公園は梅圓、森林公園は桜の名所として良く通った妙見神社の山でした。
今はこの地から北九州市小倉の街並が見え、夜景も奇麗ですね。


1995.9.北九州市小倉南区志井で新築したとき、妙見神社さんにお祓いをお願いしました。その事で、今でも細やかなお付き合いが続いていますね

2015.1.神楽殿が出来、結婚式場ができ、すごく奇麗になりましたね。

いつ行っても温かいお話しができる環境は素晴らしいと思います。












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  幸福な家庭を築く信仰と
     社会で活かされる宗教とは
福岡県築上町椎田・綱敷天満宮
椎田綱敷天満宮は散歩で良く行きます。
2015.お正月、おみくじは大吉でした。







梅の季節、綱敷天満宮ぜひ遊びに来て下さい



福岡県行橋市元永・須佐神社・太祖神社

私が氏子の元永須佐神社、太祖神社、二つ並んであるので御両社。

元永氏子の皆さんが定期的に清掃美化します。

元永区は200世帯、他で須佐神社を守っています

その須佐神社上に石佛が300体あります。

元永山山頂は神様と仏様が宿っています

その元永山に弘法大使を祭る館があります。

須佐神社上の元永山山頂までが清掃区域です。

須佐神社は119段の階段を登ります。
元永区、須佐神社、神楽などは、ホームページ、「おいらの街」ご覧下さい