私が生まれた1950年から今に続く北九州市・上瀧家のおいたちを紹介します musick 雨の日は日曜日(カーペンターズ) №3
1981,3,初春、梅の香りが漂うこの日、父がどうしても行きたい「勇哲も一度は行っとかなぁー」と言う事で、上瀧家の先祖が眠る佐賀県小城市へ父母と弟の4人で行った。そして、父母が去り、やっと責任を感じる大人になり、20数年が過ぎた今、上瀧家のルーツ探しがはじまった。
私が生まれた1950年から北九州市上瀧家、そのおいたちを探す上瀧家のルーツ探し。その祖先を知る旅が、始まった。 2016.1.4.孫と家族で佐賀県立 宇宙科学館「ゆめぎんが」と村岡屋総本舗「小城羊羹」歴史資料館に行った。そのそばに小城神社に孫と参拝した。もしかしたら祖父も、親族も参拝している神社かも知れない、上瀧長治郎のルーツは小城市の何処か。 製作・配信 大和三郎丸 (上瀧勇哲) |
2025.1. あけましておめでとうございます。今年もよろしく。その上で洋子ちゃんと私、元気で、たくさんな、お世話係楽しんでいます。昔と一つも変わらない生き方、今、終活に向けてライフの整理しています。その上で2023.に向けて新しいホームページをウインドーズ10、にホームページヒルダー22のソフトで、ただ今悪戦苦闘中です。ぜひ2025ご覧下さい。 2017.2.皆さんこんにちは、お元気してますか、梅の季節になりましたね、太宰府天満宮に行きました。 2020.8.太平洋戦争が終わり、今年で75年になりました。その上で戦争で亡くなったご先祖様や、その家族の想いが時とともに薄くなっているこの頃、今、もう一度、戦争に行った祖父の苦しみ、焦土となった日本。そして悲惨な広島、長崎の原爆。多くの国民が犠牲となった戦争をもう一度考え、私達が今、平和で幸福に生きている事を、ご先祖様に感謝することをしたいですね、その過ちを二度としない為にも。 私の母方の祖父は海軍で生きられましたが、その祖父の兄弟7人、従兄弟の多くが戦争で亡くなりました。 不幸な昭和の歴史が過ぎ去り平成31年4月で、新しい年号になろうとしています。平成天皇が言いました、戦争がなかった平成で良かった。 本当にそう想います。戦争は国民の犠牲に寄り、成り立ちます。人間欲を炊き付ける社会でなく、優しい思いやりのハートがあれば、だれでも幸福します。 ささやかな、つつましい、ライフスタイルを心掛け、楽しく生きたい。私は誰でも、こんにちは、おはようございます、します。 そして、人間コミュニケーションは、まるく、まるく、楽しく語り合える平和な世の中、そのような社会を目指したいですね。 大和三郎丸 (上瀧勇哲) |
2006年より始めた趣味のホームページが 今年18年となりました。全て、私と洋子ちゃんが製作配信するホームページです。古い2006年からのページ「勇哲.洋子のポートフォリオ パート 1」から part4など、魚釣りクラブに関連した「ようこそ海洋磯釣倶楽部1」 ~ 5へつづき、「サーフメイズ JAPAN」など6000pほどあります。メッセージなどありましたら、お電話、お手紙など、お待ち申し上げます。 2025. ペンネーム 大和三郎丸 (上瀧勇哲) |
2021版. 海洋磯釣倶楽部4 2022年より・海洋磯釣倶楽部5を新しく開設リンクご覧下さい版 |
私が生まれた1950年から今までの上瀧家のおいたちを紹介 |
上瀧家のルーツ探し、きっかけは、父から連れて行かれた寺 |
はじめに、上瀧とは「じょうたき」と読みます。略字で「上滝」と書いても同様なあつかいで通用します。その上瀧家先祖の多くは佐賀県佐賀市から大和町、小城市にまたがる広い区域にあり、日本国内でもここだけ集中してありますから、この地から上瀧家のルーツが始まったと思われます。
その地から私の祖父、長二郎さんが北九州市小倉にやって来て、私のルーツを築いてくれました。
1980年、私が30才になったころ、父、松義が「勇哲にも一度、先祖が眠る地を教えておかないけん」ということで、弟の哲郎と母の4人で祖父、長二郎さんが生まれ育った佐賀県小城市小城町の寺参りと、父の従兄である上瀧○○さん家に行った事から、上瀧家のルーツ探しが始まることになります。
昭和56年3月、父と母、弟の4人で最初の訪問地である佐賀県肥前山口駅そばの、従兄の上瀧○○さん宅へ行きます。この方がお寺さんの案内から食事までお世話頂き、父はこの家で二泊します。父と交友があったようですが、この方の息子さんが、かの有名な競艇選手、上瀧和則さんであることを後で知ります。しかしながら、この時はまだ無名の選手でした。その後、この地を訪れることはありませんでした。 そして……
父が連れて行ってくれた佐賀県小城市の古寺、その寺に上瀧家の墓が大小11基あった。
上瀧長二郎の実家墓ではなかったが、親戚縁者がここにあることを教えてくれた。
古寺の丘に沿ってある墓は江戸、明治時代からのもの、木の墓もあった。
その一つ一つに念仏を唱える父がいた。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と。そして上瀧家の家紋を拓本して持ち帰った。上瀧家の墓を作る為に。
上瀧家のふるさと |
私達三兄弟が生まれ育った北九州市小倉、三郎丸。
本籍地は三萩野の地名ですが、父がこの地で事業を起こす場として決め、住いを兼ねた家を購入したことから始まります。 その前までは三萩野女学園上の貸家に住み、祖父母、姉、妹と一緒に住んでいたそうです。
その新しい家で私達兄弟が生まれ育ちますが、なに分、戦後から復興の時代でしたから父、母は大変ご苦労されたようです。
その中で歩いて5分の三郎丸小学校、20分ほどの足立中学校に通いました。
その頃の街並は田ンボが多く、牛が田を肥やし、水田に自然の生き物がウジャウジャ居た、のどかな田園風景がありました。そんな環境の中で私達兄弟は育ち、飛び跳ねた時代から、社会人に巣立っていく分けですが、優しい父の周りの大人達から私達三兄弟は随分可愛がられたような気がします。
貧乏な生活をしていましたから余計に人の情を多く感じた頃だと思います。
祖父、上瀧長二郎、お爺ちゃんのこと |
私が生まれる前に亡くなった方で、カネヨおばさんが言うには、若いころ陶芸師であり、仏師として日本全国を旅した方とも聞きました。
その祖父の実家は、後で知る佐賀県小城市ですが、長二郎さんは若い頃この地を去り、旅して、行き着く先が北九州市小倉であり、この地で内村チエさんと知り合い、結婚して父が生まれ、カネヨおばさんが生まれました。ただ病気がちで若くして亡くなりますから、父や、おばさん(妹)が一生懸命努力して薬を買い与えたこと。又、父も小学生のころからデッチ奉公していた、ということも聞いていますから、戦時中は随分苦労したようです。
いずれにせよ上瀧家のルーツは佐賀県小城市の牛津村にあることは間違いありませんが、そのことを良く知る方が居ません。手がかりは昭和56年3月に行った、父の従兄弟の家、そしてお寺しかありません。その上で、長二郎さんが何処で生まれて育ったのか、そして、その父、母、親戚、兄弟がどうなっているのか、私は知りたいのですね。父からもう少し聞いておれば良かったのでしょうが、詳しく知る親戚の方がいません。
父、上瀧松義の誕生から、その生き方、歩み |
後で説明しますが父、松義は上瀧長治郎と内村チエさんから生まれた子供です。
内村チエさんは再婚して6人の子供を育てますが、その5番目が父、松義となります。戦時中であったり、女手で子供を育てる中で大変な苦労があったようです。詳しいところは内村チエさんの実家、内村家のページで紹介しています。
内村チエ、おばあちゃんは上瀧長二郎さんと再婚し、父、松義が生まれます。その妹、カネヨおばさんは6人目で、益田家に嫁ぎます。
父の義理の兄となる内村久雄さん、白石キクエさん、末松なみえさん、林うめ子さんの6人は、それぞれのページで紹介しておりますが、6人の子供を育てたチエおばあちゃんは、父が最期まで看取り、私が小学校3年生のとき亡くなりました。
そんな優しい父が生まれ育った環境は非常に厳しいものがあります。
大正から昭和にかけての時代は、国内外の政治が乱れ、戦争が多発し、厳しい生活が子供達にも及んだ時でもありました。
幼子を6人育てるチエおばあちゃんは、松義を石屋に丁稚奉公させます。そのときの苦労話を耳にタコができるぐらい父から聞かされました。それは毎朝5時に起きて石磨きから職場の掃除。学校から帰っても沢山の雑用があり、厳しい、辛い思い出がたくさんあったようです。
それと、もう一つ辛いことは右目が見えないことです。幼いとき病気で失明したのです。でも、そのおかげで兵隊に行かなくてすんだのでした。
その後12才のとき畳職人として弟子入りし、一人前になります。郡児島定二さんとか、島添さんは兄弟弟子で仲の良かった方でした。
そして30才ごろ母、牛島ヨシエさんと見合い結婚することになります。その翌年の2月、私が北九州小倉守恒で生まれることになります。昭和25年のことです。
その後、家を購入したり、畳床の機械を買ったりして、職人さんが5~6人居ましたので、かなり頑張ったようです。しかしながら高金利で金を借りていたので、返しきれず倒産となります。
ここで母方の牛島栄六おじいちゃんが、家だけは買い戻してくれますが、この頃より段々と自営業がカラ廻りするようになります。
チエお婆ちゃんの病気、母は仕事のし過ぎで肺結核という病気に架かり、国の保護を受けながら入、退院の繰り返しが始まりました。そして、私が小学校から中学、高校まで、ずーっと父が自営業をしながら家事をし、私達兄弟がそれを補ってきました。
そんなとき家の近くに浄土真宗の教えを広める滋賀県大津市から仏師がやって来ました。そして大きな家を建てます。その仏師が畳の注文をしてくれますし、色々な表具の注文をもらい、仕事を重ねている内、父がその仏師と親しくなり、浄土真宗の教えをその道場で聴くことになります。当然、母や私達も通うようになりました。
10年ほどして、そのお寺、道場が北方に移転しますが、この辺頃から父と道場門下生とのいざこざがあり、段々と道場から遠ざかってゆく姿を見ますが、それでも毎日仏壇の前でお経を唱える父がいました。
私達が働きだし家計が良くなり、母も病気が治り幸福な生活がしばらくありました。
そして、ある日、私が妻にする洋子ちゃんを紹介しますと、親父が驚くような視線で奇麗な洋子ちゃんを見てくれたことを想い出します。長男の嫁に可愛い娘が来たことで父、母が大喜びで近所、仕事仲間に自慢していました。
1974.3.北九州市若松婦人会館で私達はささやかな結婚式をあげ、多くの人から祝福されましたが、父が一番喜んでくれました。結婚式に招待できなかったご近所、父の仕事仲間、縁戚の方々が実家に入りきれぬほど来てくれて、たくさんの人から祝福されましたが、父母が自慢の洋子ちゃんを紹介して、母がご近所に挨拶廻りしたと、後で聞きました。
その後、脳梗塞で倒れ半身不随になり入院。7年間病床で過ごし、洋子ちゃんが見守る中去ってしまいました。
父の葬儀は行橋市宮ノ杜に家を建てた弟、哲郎と一緒に住む母の元で葬式をします。
母が気に入っている正山寺 住職の生土昌行さんのお経を聞きながら、安らかに阿弥陀様の元へ行かれました。76歳でした。
家族で父と母と一緒に鐘崎美穂の松原海水浴場へ行きました。
父は畳の芸術家、趣味はお念仏を頂く信仰 |
父が一番自慢していたこと、それは畳仕事です。
畳職という地味な手仕事なんですが、昔から鍛え上げられた技術は、他の職人さんよりズーッと上手で「松義さんの仕事は気持ちがこもって素晴らしい」と、評判の畳職人さんでした。
しかし、畳1枚仕上げる工程に時間をかけ、念入りにしても1枚いくら?と、なると、上手でも上手でなくても値段は変わりません。良い仕事をしたからと言って、たくさんお金を頂ける商売ではなかった為、親父はいつも損ばかりしていました。
「正直で生真面目な性格は商売人にはなれない」そう母が言っておりましたが、とうとう最後までこの仕事を続けました。
父の仕事を一番、勝手いたのがお寺さんでした。良い仕事は使って分かるもので、畳表の最上級品に、縁から藺草など、良い材料を使い良いものを作る、畳屋さんの誇りが父にはありました。その中でもお寺さんに納める畳、上敷き、茣蓙などの仕事をしているときは、朝早くとか深夜まで手掛け、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、唱えながら仕事をしているのです。
気持ちのこもった良い仕事を納めたい、そんな父の仕事ぶりを子供ながら観ていましたね。
そんな親父の性格を半分くらい私達三兄弟が背負っておりますが、父の生真面目さと、一つのことをやり遂げるガンバリは凄いものがあります。
親父の趣味であり、生甲斐となったのは浄土真宗・阿弥陀様を信じる信仰でした。40才の頃から始めた念仏に、命をかけるぐらい情熱を燃やし、意気込みを感じたのは私だけではありません。
朝と晩、お経を唱える父の声はすごく迫力があります。その辺のお寺さんのお経よりズーッと力強く、念仏の一言々々に気合が入り、唱えている父に「何かにとりつかれている」そんな気さえしました。
しかし、お経を上げているときとは対象的に、食事のときは優しさに満ち溢れており、毎日、毎晩、子供達に仏様のお説教をするのですね。正直、ウンザリするぐらいで、半分も聞いていませんけど、父は一つも怒りません。
豊かな生活ができなかったのは父に責任がある分けではありません。一生懸命生きていた時代の中で、上手に世の中を生きてゆく「知恵」がなかったから、そう想います。
お正月、父母と、近くの妙見足立神社に行きました。孫の裕美2才を抱く父の喜び顔
父、松義がくれた大切なもの |
「子供は宝、子供の幸せは親の幸せである」と父は言います。
父との会話の中で、必ず仏様のお話しが入ってきます。人を信ずるとか、仏の道とか、信仰の力とか、お釈迦様や念仏、中国の偉いお坊さんの話し、色々。これ等は父が信仰する道場(お寺)で聴いてきたことを私達に教えているのです。偉い先生のお話しを子供に聞かせることで、自分自身の勉強をしていたのかも知れません。
その心を静かに感じていると、父の人柄が良く見えてきます。
父から貰ったものはたくさんありますが、子供を叱らない、決して子供を殴らない人でした。
誰からでも好かれ、多くの人が我が家に出入りしました。
特に仕事仲間の職人さんでしたが様々なトラブルを持ち込んでは、何かと世話好き、お人好しの接待をしていましたね。
ご近所の暇人が、所中遊びに来ておもてなし、時には宗教戦争をしてましたね親友と、そんな出入りする人々から私達は可愛がられた? そうでもありませんが、接待すきの父に、一番困ったのが母でした。
父の人間性は、優しさとお人好し、そして仏様を信じる迷いの無い心でした。それがゆえに生活苦もありましたが、その分、私達子供が力強く育ったと想います。
晩年は脳梗塞で半身不随になり、7年間入院生活をしました。母が毎日のように看病に行きましたけれど、私達はそれに甘えてほとんどしてやることがありません。寂しい運命であったことを偲びます。
上瀧松義、改名 釈義円、平成10年12月14日 赤穂浪士討ち入りの日、亡くなりました。
母、上瀧ヨシエのこと |
母の生まれ育った環境は、牛島家のサイトで紹介しておりますが、父、松義と結婚して、しばらくは幸福であったと想います。しかし、戦後から復興の時代で世の中みんな貧乏でした。
そんな中、働き盛りの父は畳職として事業を起こします。当然母も一緒になって、朝早くから夜遅くまで仕事に精を出します。
畳屋さんはイグサを何重にも重ね合わせて厚さ8㎝ほどの床を作りますが、この作業が大変なんです。母も一生懸命父の加勢をします。
床が出来たら職人さんが表イグサを張り、ヘリという生地で両端を留めて、畳一枚がやっと出来ます。ただ、その畳の重たいことです。そんな重労働があり、母は病気になります。肺結核といって、当時国が定めた国病でした。私が小学校4年ごろから10年間ほど、入退院の繰り返しがありました。もちろん父も家事をしながら子供達の世話をしてくれました。母も元気があるときは、トウフ屋さんのバイトや色々なアルバイトをして家計を助けます。そのことを私達三兄弟はつぶさに見てきました。
そんな母の趣味は踊りでした。夏の盆踊りがきっかけで、町内会から趣味のクラブにも参加して、老人会の慰問から学校、PTA等の行事参加をしていましたね。
そして私達子供が大人になり社会に出ると、やっと暮らしが楽になり、母の病気もほぼ完治され、北九州市や小倉の街の色々なイベント行事の踊りには必ず母が居ました。
そんなとき父が脳梗塞で倒れ、入院します。7年間の病院通いがありましたけれど、病気一つせず元気な母が弟と共に行橋市に引越し、ここでも「英」という踊りの会に入り、町内から校区、行橋市等の祭りから、年に一度の行橋市民会館で英の踊りの発表会等ありまして、けっこう充実した楽しい一生を終えたと想っております。
母の生き方は、友を多く作ることが上手で、何事も真っすぐに生き、身体を張った言葉の中で、その重さを伝えながら友と一緒に遊ぶことが上手であったと想います。
行橋市宮ノ杜に引越して8年余り、今川の正山寺さんと密接なお付合いを頻繁にしながら、松本のおじいちゃん、山田のおばあちゃん、英先生や町内会、老人会、たくさんの人々から愛され、私達家族が見守る中、優しい笑顔で去っていかれました。
上瀧よしえ、改名 80歳、平成17年7月12日 亡
内村チエ(祖母)と、内村家のお話し |
私が9才のころ亡くなったチエおばあちゃんは、孫(私)を抱いて、手をとって片野の浄土真宗 正円寺や泉寺に良くお説教を聴きに行ったそうです。
法話を聞かせてくれる仏師の中で、小手川勇哲さんというお坊さんが大好きで、そのお坊さんの名を頂いて私の名前、勇哲と名付けたと親父から何度も聞かされます。
内村チエおばあちゃんは、山口県大島郡大島村の内村家、長女として生まれますが、次女のクラ、三女のカネの三姉妹であったため、長女チエは18才のとき婿養子をもらうことになります。
詳しく説明しますと、内村家は代々の庄屋さんで米問屋をしていました。
明治時代は米や醤油、塩、漬物まで幅広く営み豪氏であったことを聞きます。
その内村家に婿養子に来る久助さん家は船問屋。今で言う貨物船を3~4ハイ持ち、広く商いをしていた貿易商で、その次男か三男?の久助さんと結婚します。そして4人の子供が生まれました。
①長女のキクエおばさんは、白石武雄(小倉北区)に嫁ぎます。
②長男の久雄さんは内村家を継ぐことになります。(小倉北区三郎丸)
③次女の、なみえさんは末松岩之助さん(八幡東区)に嫁ぎます。
④三女うめ子さんは
どうして北九州市にやって来たか分かりませんが、その久助さんは子供達を置き去りにして、どこかの街で再婚したと聞きます。(益田カネヨおばさんの話)
その後、縁あって上瀧長二郎(私の実の祖父)と内村チエさんが結婚します。(再婚)
⑤そして私の父、上瀧松義が生まれます。
⑥妹にカネヨさんが生まれ、後に益田 勝さんに嫁ぎます。
古い戸籍には山口県大島郡大島(瀬戸内海の周防大島)から代々継がれる内村家の長女、内村チエとして生まれ、昭和34年、小倉三郎丸で82才の生涯を閉じたのです。
◎内村クラ(チエ祖母の妹で次女)さんのことは分かりません。
◎内村カネ(チエ祖母の妹で三女)さんは、北九州市小倉で林 千代吉さんと結婚します。林家は代々継がれるこの地の名家です。材木問屋をしておりました実家があり、カネおばさんは幸せに暮らしていたと聞いております。
北九州市の内村家は絶える |
私が知る内村家の後継者はいません。もしかしたら次女の内村クラさんのご先祖が周防大島で内村家を継いでいるかも分かりません。
カネヨおばさんが話すには、明治から大正時代にかけての内村家は山口県大島の米問屋等、広く商いをしていた内村家祖父は、たくさんの証文貸付金を全て破棄し、多くの人々にほどこした!!
そうです。内村家、上瀧家の人々を見ると分かりそうな気がします。
小倉、内村家のお墓は小倉北区○○寺にありますが、私が知らないもっと古い過去がありそうです。その歴史を知るには、まだまだ時間がかかります。
内村チエ(祖母)お婆ちゃんの子供達 |
①長女の内村キクエさんは、北九州市小倉三郎丸で白石武雄さんという軍人さんと結婚します。5人の子供ができ、長男の白石武治さんと私は義理の従兄弟になる方でお元気でお過ごしです。同じ町内である為、子供の頃の私は随分キクエおばさんから可愛がられたものです。
②長男の内村久雄さんが本来、内村家を継ぐことになりますが、結婚されて間もなく奥さまが亡くなられ、光弘さんを養子にされます。光弘さんは従兄弟にあたりますし、同じ町内でもありました。
結婚されて女の子が三人できましたが、光弘さんが早く亡くなられ、奥さまの実家へ子供さんと佐賀に帰られ、消息が途絶えました。
③次女の内村ナミエさんは、北九州市八幡東区の末松岩之助さんと結婚され、太一郎さんと妹さんである○○さんが生まれますが、この方が全日本ミスユニバースの九州代表に選ばれた大変奇麗な方と親父が自慢していましたが、若くして亡くなったそうです。
④三女の内村うめ子さんについては分かりませんが、近い親戚筋に有松さんの名がありますから、こちらの方と思っております。
⑤久助さんと結婚した内村チエ(祖母)さんには、上の4人の子供がいましたが、ある日、久助さんが家を出てしまいます。その後、上瀧長二郎さんと知り合い、再婚することになります。そして私の父、上瀧松義が生まれます。
⑥二年ほどして上瀧カネヨさんが生まれます。カネヨさんは戦時中、小倉造兵所に勤めていた時、憲兵をしていた益田 勝さんと知り合い結婚しますが、こちらは益田家のサイトで紹介しています。
⑦前夫の内村久助さん、再婚した上瀧長二郎さんとの間に6人の子供を育てたチエおばあちゃんは、大変苦労されましたが、晩年、孫の私や哲郎を連れてお寺参りを良くしたことを聞きます。奇麗で気品のある、優しいおばあちゃんで有名でした。
内村家、上瀧家に関わるお話し |
ここでのお話しは父、母はもちろん私の記憶と白石武治さん、益田カネヨおばさんから多く聞いたことを記載しています。
小倉北区三郎丸の上瀧松義家の周りには多くの親戚が居ます。みんな血の繋がりのある方ばかりでしたが、親父の偏屈と、優しさ、人の良さが裏目にでて、この地を去ることになりましたが、私にとっては故郷です。今、小倉三郎丸は都市の一環となり、多くの親戚縁者がこの地より分散しました。寂しくなりましたが時折この地を訪れ、昔を想い出すことがあります。
昔、内村久雄おじさんが毎晩のように風呂に入りに来ます。勇哲、哲郎、周作と可愛がってくれ、良くお小遣いをくれました。「ワシが死んだら後のことを頼むゾ!!
」と言って去ってしまいましたが、内村のおじさんの後を継ぐ方が居ません。
白石キクエおばあちゃんが言います。松義さんには三人の男の子が居る「子供は宝ジャー」と言って、貧乏を励ましてくれたことを子供ながら聞きます。あの大声を張り上げるおばさんは、いつも私達にお小遣いをくれ、優しくしてくれました。これも父が真面目で祖父母、親を大切にしていたことを兄姉が認めた証拠でもあります。
内村久雄おじさんが口癖のように言っていました。「死ぬ前に一度、大島に行ってみたい!! 」と。
あの元気なとき連れて行ってやればよかった、と悔やまれます。
その気持ちを、いつか兄弟で周防大島に行き、何処か分からない内村家祖先のお墓参りをしたい、おじさんの好きだった「栗まんじゅう」を持って。
父の自慢話し |
父が元気でいたころ、仕事を終え、家族で夕食とき、ちょっとの酒をたしなむとき、オレは女にモテた!! とか、上瀧家はみんな男ぶりとか、美人ばかりであったとか。それで勇哲と哲郎は母に似て、周作が少しオレに似ているとか、色々。
今考えると上瀧家の人々はみんな四角顔で目が二重。それに、みんな声が大きい。父だけおとなしい性格で優しかったが、妹の益田カネヨおばさんは美人で、言葉少なく優しく、何処か気品があり、お婆ちゃんに一番良く似ていたと私は想う。
もしこのサイトを見て「内村家のことを教えていただける方」がありましたら是非お電話下さい。こちらから伺います。℡.fax0930-24-0199です。
よろしくお願いします。
あとがき 2008.1.1. |
人生は長くて短いものです。「光陰矢のごとし」とは、ときの流れの速さを言いますが、私も残りわずかです。その中で今、私ができる事は、ご先祖様を敬う心です。
上瀧家のルーツ、祖先と、それに繋がる親戚関係をきちっと整理し、次の若い世代にその足跡を残しておきたいのです。
その上でご恩報謝の心でご先祖様に感謝し、今こうして幸せであることを祈り、次の世に進められたらの願いです。
上瀧家のルーツを探る 佐賀県小城市、上瀧長二郎、先祖を探す旅 |
私が住んでいる行橋市には上瀧という名の方は殆どいません。NTTの電話帳に記載されているのは弟と他に2件だけなんです。そのもう一件の方は、佐賀県出身と聞いています。
以前住んでいた北九州市100万人の中でも、上瀧という名前の方は電話帳だけでも、ほんの数件しか居ません。それぐらい珍しい名前なのです。
しかし、ご先祖さまが集まる佐賀県に入ると、佐賀市内だけで数百件。大和町や小城市になると随分多く居ますから、同じ名前のお店や広告、看板を見るとちょっと安心します。そのような佐賀県にある上瀧長二郎おじいちゃんのルーツを探すことにしました。
そもそも昭和56年4月に父と母に連れられて訪問した親戚家と、お寺に行けば良いことなのですが、その後、親戚付合い全くなし。父の資料とか手紙、連絡先もありませんから、さて困りました。
それで私の記憶だけで行ってみることにしました。
平成18年2月の日曜日です。
朝早く、洋子ちゃんの愛車、ホンダライフはツタエ母さんが買ってくれたピカピカの新車です。カーナビもあるし、テレビもあるからルンルン気分で、九州道から鳥栖
I Cで下車し、国道34号線沿いに行けば、JR肥前山口駅があって、そこら辺の人とかタクシーの運ちゃんに聞いたら分かると思っていました。
ちょっと時間をかけて、のんびり国道34号線と並行に走る電車道に肥前山口駅を見つけ、ここからちょっと山手の上にお寺があるはず、と、思っていましたから、いきなりお寺探しです。
1件、2件……5件、10件ぐらいお寺を見つけては、自己の記憶と重ね合わしたり、そのお寺に入って、ちょっと聞いたりしましたけど分かりません。
とにかく、お寺の墓地にある上瀧のお墓を探すことなんですよね。一つ二つある上瀧のお墓も、お寺が違います。住職に聞き、ヒントをもらい、再び聞いた先のお寺に行く。又聞いて、次のお寺へ。佐賀県にはたくさんのお寺があり、浄土真宗でも東、西、大谷派とか、禅宗、臨済宗など色々あって、すごく入り混じる、お寺の宗派って複雑なんですよね。そこで、とうとうこの日は諦めて深夜帰宅しましたね。
上瀧家の探訪と牛島ご本家を訪ねて |
平成17年7月、母、上瀧ヨシエが亡くなって次の年小林 昭さん(母の弟)が佐賀、牛島ご本家に赴き、まさかの香典を頂いてきました。私としては、ほとんど縁のない本家筋ですけど、母の従兄弟があっちこっちに居たご本家筋ですから、当然、昭さんはこちら側とのお付合いがあるのでしょうか、
そこで母の三回忌を終えた後、佐賀の牛島家に訪問することにしました。
昭おじさんが書いてくれた住所だけですが、便利なカーナビで探して行きます。そして兄弟筋の方と面会できて、まずお寺さんをご案内してもらいます。
30数年前、母と一緒に行ったときは、あの大きな記念碑のような墓石は無くなっていましたが、新しく置き換えられた大きなお墓にご挨拶し、お寺内にある牛島ご先祖さまの納骨堂をはじめ、仏さまにご挨拶して少しばかりのものを置いてきました。
そして、ご本家となられる大きなお家に行きますと、すごく心地良いおばさまの案内で、ご先祖さまの仏間に通され、洋子ちゃんと一緒に手を合わせ、これまでのお付合いがなかったことのご無礼と、祖父
栄六おじいちゃんのことなど、お話しを聞いてもらいました。又、帰りぎわに手作りのオミヤゲまで頂いて、すごーく感謝することばかりでお別れをしました。その後、三度ほどこの地を訪れ、お寺に、お参りしています。
三度目の佐賀、上瀧家の探訪 |
平成20年9月の日曜日。
そのような母方の佐賀市、牛島家と隣り合わせの小城市の上瀧家は、何の巡り会わせがあるのでしょうか?、まだ、上瀧長次郎おじいちゃんのご先祖さま地を探し当てていませんから、それで今度は三度目となります。このときは弟と三人で行くことにしました。
弟は昔、父、母と一緒に行ったことがあるので、彼も詳しいことは知っているつもりでいます。それで洋子ちゃんと哲ちゃん二人が、プリウスのカーナビをいじくりまわして、あっち、こっち、お寺さん探し。小城市から外れて長崎県まで入ってしまうこともありましたが、結局この日も問題のお寺さんは見つかりませんでした。
父と来た寺とは想えない、一変した臨済宗永福寺へ始めて公式訪問
平成21年2月22日(日)曇のち雨、佐賀県牛津、永福寺 |
朝から雨、時々強い風が吹いてイヤなお天気ですが、洋子ちゃんのホンダライフで出発します。この車は、洋子ちゃんのお母さんが買ってくれた新車で、保険からカーナビ全てを付けてもらっています。
そんなナビに佐賀県小城市JR牛津駅にセットして出発は午前8時前。
いつものようにホットコーヒーやら菓子等をたくさん持参しています。途中、古賀SAでお土産を5箱購入して、もしかの時の準備をしておきます。
佐賀大和ICで降りて、国道34号、牛津駅交番におもむき永福寺を紹介してもらいます。すると私の住所録にも永福寺のお寺さんの名があります。これは三年前、訪問したとき牛津駅前の写真館さんで、上瀧長二郎写真の裏に書いてある古い住所が戸川で、近辺の浄土寺のお寺の紹介が永福寺だったのです。このとき訪問したときは留守で、お墓はあまり見てなかったのです。それにこのお寺、数年前にも来たことがありますから、今日で四度目。もしかしたら五度目の正直になるかも知れません。
父が訪ねたお寺、永福寺に洋子ちゃんと始めて訪問しました。
国道34号線に新しくバイパスが出来たそばの永福寺さんは臨清宗のお寺です。
広い敷地に小さな小山があります。その山の斜面にあるお墓のなかに上瀧家の墓があります。記憶の中のイメージで、お寺と、お墓を重ね合わせてみますが、まだ分かりません。大切なのはイグサ屋根のお寺に、正面に石の門柱が二つ並び、その奥に家門があることなんです。古い写真を見ながらウロウロしている洋子ちゃんが、このお寺に間違いないと言います。
そして雨の中、小さな小山に登って30数年まえを想い出します。イメージと違う中で、上瀧家の墓を三つ、四つ確認して、お寺の玄関ブザーを押しますと、洋子ちゃんと同じ年頃の坊守さんにご挨拶し、ことの成り行きの話しに、手元の写真を見ていただいて、はっきり確認させて頂きました。
「相違ございません。20数年前、お寺全てを建て替え、墓地を整理して随分変わりました」と聞きます。
お寺の裏に国道が出来て、玄関が裏に変わったそうです。
始めて臨済宗永福寺へお参りしました。木彫りの「だるま大師」2対は一刀彫り、など貴重なお話しを頂きました。
そして、坊守さんがお寺の本堂を案内していただきます。中央のお釈迦様、左右のだるま大使さま、観音さま等を一つ一つ説明いただき、その下で手を合わせます。そして別館に案内されて、若住職と、たくさんなお話しを聞き、温かいお茶にお菓子を頂いて、ホットな気分で良かった、良かった。祖先の親戚縁者が、この地にたくさん居ることを知って、ただ感謝。
後日、もう一度、行橋銘菓とご仏前をお届けして、これからもよろしくお願いしますとして、お電話を頂きました。
永福寺には上瀧家のお墓が11基あります。
佐賀県神埼、牛島家先祖のお墓参り平成22年2月22日 |
父と母の先祖が、わずか50㎞離れたところにあることで、毎年、母のおじいちゃんの先祖が眠る寺にお参りします。
こちらも禅宗寺のお寺ですが、坊守さんがあいにく不在でしたので、お墓参りをさせていただいて、ご近所に住む実家にあたる牛島家と、その兄弟親戚家に行き、簡単なご挨拶をいたします。
雨の中わざわざということでしたが、このような触れ合いもきっとおじいちゃん、おばあちゃん、父、母も喜んでくれるでしょう。
父、母が出来なかったことを私達がして上げられること、そしてこのようなお付合いの仕方も北九州市、行橋市の上瀧家と佐賀との繋がりを、子供達、親戚方が、深く繋げてくれることを願って、まだまだ私達はガンバリます、としておきましょう。
寒かった2月牛島家の菩提寺にお参りしました、そしてご本家に
平成22年8月盆、父、松義の妹、カネヨ叔母さんと永福寺にお参り |
上瀧長二郎お爺ちゃんの子、カネヨおばさんと勝義さんをお供にして、佐賀、上瀧家ご本家のお墓参りをすることになりました。
もう90才になるカネヨおばさんは、まだ一人で買い物にも行けるぐらい元気がありますけど、いつも付き添っている勝義さん(長男)と二人暮らしなんですね。それで年に数度、お伺いしてお話しを聞いたり、仏間に手を合わせてお付合いしています。そんなとき、上瀧長二郎おじいちゃんの写真を頂きましたので、その御礼で佐賀の上瀧家のお墓参りと、お寺参りをしてもらうつもりでご案内をしました。
8月の盆休みを利用して、ホンダステップバンで、ゆったり安全運転して、わずか3時間ほどで永福寺に到着します。
杖をついてのお墓参りですが、すごーく嬉しそうです。「勇ちゃんが、洋子ちゃんが!! 」と口癖のように誉めてくれるおばさんに、永福寺住職、坊守さんとゆっくりご挨拶して、先日の御礼も込めて、少々のオミヤゲを持参します。勝義さんが奮発したようなご厚志を添えて、阿弥陀様、お釈迦様に手を合わせます。
今日はお盆ということで、たくさんのお参りの方が居ましたが、特別扱いでおもてなしを受けた私達。
北九州市から上瀧家、そして、これからのお付き合いも含めて繋がるご先祖さまの地。そのような温かいこの地に来て、カネヨおばさんは大満足しています。長二郎さんが生まれた地であり、おばさんの故郷でもあるからです。
8月盆、カネヨ叔母さんと勝ちゃん洋子ちゃん私で訪問した永福寺
※上瀧松義の親戚は北九州市小倉に有松家、白石家、林家、益田家、多数あり
2012.1.上瀧家のルーツを探す、まとめ |
最後まで読んでくれて、大変ありがとうございます。
私達人間の、それぞれのルーツを突き詰めますと、いずれ一つになります。
人類はみな兄弟!! なんでしょうが、やっぱし、それぞれのご先祖さまを、しっかり知りたい分けです。
特に私達のような、ありふれた家族には余計に知りたい。ちょっと傲慢なのかも知れませんが、このことを追求してゆく遊び心というか、面白さもあります。その上で、このことを親戚、兄弟がそれぞれにしっかり繋がってくれて、お友達が増えて、なにがしの交流があったら、もっと幸福になれる、そう想って上瀧家のルーツ探しをしています。
今年も母の命日に兄弟3人集待って法事をします
そして昔、お世話になった、ご親戚の皆さんにも、何かの形でお礼をしたい。お墓の前で手を合わせるだけですが、それでも自分の心で感謝の気持ちを伝えたいのです。
いずれ私も、みなさんのところに行きますが、私と妻が、兄弟が、残せることを、次の若い世代に受け継がれてゆけたら、もっともっと幸福になれる、そんな、つまらぬ事を楽しんでいます。
もし良かったら、お手紙だけの交流でも頂けたら幸です。
よろしくお願いします。
2012.4.10. 上瀧勇哲、洋子
毎年の盆と父母の命日には正山寺、生土昌行様よりお念仏を頂きます。
2010.8.13. 盆 福岡県行橋市宮の杜 実家(上瀧哲郎) 三兄弟家族で、ご先祖さま、阿弥陀仏如来(南無阿弥陀仏)へ 浄土真宗本願寺派、正山寺、生土昌行さまのお経をいただきました。
勇哲.洋子のPOTOFORIO パート3 | My Life Stage 2021 |
1973と74.上瀧家と親戚家族の餅付き |
上瀧家に天使がやってきた、父母が娘のように可愛がった洋子ちゃん |
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父・母・祖父の想い出メッセージ 2015. から作品 |
お墓のリフォームと母ヨシエの法要、ご案内
ペンネーム 大和三郎丸 (
みなさんお元気でしょうか、私、今だに若いハートを燃えたぎらせ、一生懸命遊んでいます?。そのシニア世代、若者みたいにアクションする方、多くなりましたねェー。
その中に取り込まれた私も、ヤングみたいに必死で遊んでいますよ、洋子ちゃんも一緒です♡
さて一昨年、ご先祖様のお墓をリフォームすることになり、兄弟はもちろん、母方のおじさんと相談しながら、本年の2月、新築のようなお墓が出来ました。それで、檀家としている行橋市今川、正山寺、ご院家さん、生土昌行様により、建碑法要され、無事、上瀧家のお墓ができました。
そのリフォームですが、父が去った20数年前から悲願としていた、広い納骨堂が出来ました。これで安心して、父、母、祖父母と一緒に眠ることができます。その墓所のことを少し紹介します。
私が小学校低学年のころです。北九州市小倉南区守恒、「日の出町バス停」から登る守恒山は、100mに未たない山並みが三つ、四つ連なった岡のような地域でした。
その守恒山のふもとに母方の牛島栄六おじいちゃんの茅葺屋根の家がポツーンと一軒ありました。ご近所さんには横山さん、小路さんの数軒しかありませんでした。もう一方から登る近道の「守恒バス停」からは、急な赤土の坂道を登るコースがありましたが、子供のころの私達は無理でしたから、いつも20分も遠回りする「日の出町バス停」を利用していました。
そのような岡上に登ると、広く開けた盆地のような山並があります。そこにおじいちゃん家がありました。その家から、なだらかにつづく畑下には上池と下池の二つの権現池があり、守恒から徳力、北方、蒲生につづく稲作の為の大きな池がありました。
牛島栄六おじいちゃんは、太平洋戦争で戦艦「睦」に乗船していた将校でしたが、長崎県佐世保で修理ドッグ中に終戦となり、命を長らえ、戦後、佐賀市からこの地に来て、守恒山を開墾し、酪農と農園事業を始めました。私が知る子供のころは乳牛が6~7頭に牛、ブタ舎が五軒連なり、二階屋ぐらいな大きな養鶏場が二棟ありました。私は毎日しぼりたての牛乳と玉子は食べ放題でしたね。
そして農園では当時、貴重とされた白菜から大根、イモ、スイカ、キュウリ、ウリ、トマト畑など当時、野菜と名付けられるものは、ほとんど作っていました。それを農協とか小倉国立病院に届け、守恒ではヤリ手のおじいちゃんとして有名な方でした。
栄六おじいちゃんを優しく支えた千代おばあちゃん、その長女が母ヨシエ。長男は善六。次男の亨。三男は博。四男は昭の、四男一女の家系として、農園酪農事業を家族で守っていました。そして長女のヨシエが、畳職をしていた上瀧松義と、お見合い結婚しました。
1950年2月12日、大雪の守恒山には深さ1mも雪が蓄積し、猛吹雪の中、産婆さんが来て、私が生まれたと、千代おばあちゃんの話し。私が牛島栄六おじいちゃんの初孫として、この家で生まれたのでした。大喜びの栄六おじいちゃんは、親族はもちろん、ご近所みなさんを招待し、紅白のモチをつき、盛大なお祝いをした、と聞いています。
丁度良い甘さのオハギは母の大好物でした。
そのオハギを年5度の法事に作ります。
洋子ちゃん手ずくリオハギは毎回42個ぐらい、私もモミモミしていますよ、私達の法事は、仏様に手を合わせてくれる方なら、誰でも来て下さい。一緒にお食事会しませんか。
その最初に建てられた家そばに今度、リフォームした牛島家、ならびに上瀧家の墓所があります。詳しく書きますと数百ページになりますが、現在、その牛島家を継ぐ方はいません。おじいちゃん、おばあちゃん、母の兄弟を偲ぶところは、その墓所だけとなり、守恒の下池は大型のショッピングモール、上池の権現池は団地に変わり、おじいちゃん家とか畑は高級住宅地となり、その山並は守恒小学校、守恒中学校、さらに企救丘、志徳団地に変貌しました。
私達が生まれ育った、広い盆地の景観を、知る方は少なくなりましたが、山並に乳牛が数十頭放され、熊本県阿蘇の放牧と変わらない小さな景観があったこと、その生物と遊んだ幼い私、そして兄弟や近所の横山ファミリーなどと和んだ、想い出を、墓所で偲ぶことができます。
7月12日は、母よしえの命日ですが、牛島家、隣りに上瀧家のお墓をリフォームしたことで、今年は再度、牛島家と関わるご親戚の方を招待し、法事をしたいと想います。
行橋市今川、正山寺、生土昌行様の、若々しいお経と、優しいお説経を頂きながら、洋子ちゃん手作りの親しいお食事会をいたします、どうぞ、お参りください。
牛島、上瀧よしえ 法要の席
◎と き 平成29年7月23日(日曜日) 午前11時30分から、30分ほど。その後、来てくれた皆さんと、生土昌行ご院家と、ご一緒に、お食事会をいたします。
◎場 所 福岡県行橋市宮の杜31-5(上瀧哲郎 家)
◎おもてなし係 上瀧勇哲、洋子
※出席の方は一週間前に連絡下さい。JR利用の方なら、行橋駅に迎えに行きます。
お話しは前後しますが、昨年の9月に始めて牛島栄六おじいちゃん、牛島家の法事をいたしました。
私の考えで牛島家の法事をしたのですが、これには理由があります。現在、北九州市小倉、牛島家を継ぐ、ご親族がいないのです。唯一、母ヨシエの弟、昭おじさんがいますが、○○家へ養子とされていますので、表立って法事が出来てないことです。
それで昭おじさんと、お話しをさせて頂き、牛島栄六おじいちゃんの初孫である私、そして上瀧三兄弟でいたしました。来てくれた、昭おじさんなど、少なかったのですが、牛島家、ご本家がある佐賀県神崎、禅宗寺に関わる、ご先祖様に優しい報告が出来たこと♡、感謝しています。
最後に、私のモットーである「人類はみな兄弟」のハートは、優しい、おもいやりの心、ささやかな気遣いから始まる、日本人特有の、ご先祖様を偲ぶ 「おもてなしの心」だと想います。
60代の私、そのお友達が今、若者世代をリードする、おもいやりのハートを、どんどんプレゼンスし、元気のあるJAPANを「未来趣向」に変えてゆくアクションプログラムが、求められます。
私達の子供世代がセンターとなり、今度は孫世代が活力をパワーアップさせ、元気みなぎるJAPANに変革させ「幸福な社会のリード役になることを私達は望み」応援したいと想いますね。まだまだ私も、みなさんも元気!! 生甲斐を求めることをアクションしましょう。
「若者よ、輝け!! 」クラーク博士のボイスピア アンビシャス「Boys,be
ambitious」より
スターコーンFM 様 FAX0930-56-4411
みなさん、こんにちは、三善由加里さん、こんにちは、シルバーウィーク日のお仕事、大変お疲れさまでした。づうーっと聞いていましたよ♡。
さて、そのシルバーウィーク日は、親戚兄弟家族で法事をしました。その法事に欠かせないのが「オハギ」です。今は居ない母が、大好きだった妻、洋子ちゃん「手作りオハギ」は、もう30年ぐらい前から子供のオヤツとか、ご近所、親戚に配っていましたね。
今は、年5度の法要日に欠かせない、お供えもの、来てくれた皆さんに頂いてもらったり、ご近所にも、おすそ分けする、大切なものとして、続いていますね。
その上で、私達の法事で、お経を上げてくれる、お寺さまは、必ずご一緒に「
三善由加里さん家の法事は、どのようなスタイルなのでしょうか。
2015.9.25
ラジオネーム 大和 (
♪リクエスト …… 夏川りみ 「涙そうそう」
ご親戚の皆様へ |
スターコーンFM 様 |
みなさん、こんにちは。
三善由加里さん、こんにちは。
さて、先ほどの「焼うどん」の、お話しですが、小倉っ子の私は、子供のころ、おばあちゃんが
小倉
そのような小倉っ子のお祭りは、小倉祇園太鼓ですね。この祭りで遊んだ子供のころが懐かしいです。
北九州市小倉、井筒屋デパート屋上に行きました
2015.9.3
ラジオネーム 大和 (
♪リクエスト 村田英雄 「無法松の一生」
東京FM・ミュージックバード ぐるっと360度 上原喜光 様 |
昭和のことば
父の想い出 たばこと火鉢とまんごろ
昔、父の楽しみの一つでした「たばこ」は、なくてはならないものでした。
自営業していた父の畳屋さん家の仕事場には、オールシーズン火鉢があり、そのそばに毎日ご近所さんから仕事仲間の人々が、しょっちゅう出入りしていました。
その、火鉢のそばに、人々が集まると、すぐに「たばこ談議」が始まります。
人の良い父は、仕事を止めて、火鉢で沸かした鉄瓶から注ぐ緑茶を出し、おもてなししています。その、父の嬉しそうな笑顔が、今でも想い出されます。
その話しの話題は、ほとんど公営ギャンブル。
貧乏していた父は「たばこ」を買うことができなくなると、火鉢の中に捨てられた「まんごろ(たばこの吸い残り)」を拾い、キセルで吸っていました。
昭和時代の父の想い出は、人々に優しい、お人好しがありすぎて、いつも夫婦ケンカしていました。
でも、子供の私は、なぜ、夫婦ケンカしているのか分かってないときでもありました。
そして、父が愛用していたタバコは「バット」「しんせい」を、お使いで、私は良く買いに行っていました。そのようなタバコ・銘柄・今もあるのでしょうか?。
2015.7.26.
ラジオネーム 大和 (
東九州コミュニティーラジオ局・スターコーンFMより聞いています。
東京コミニュテイFMラジオ・ミュージックバード365 上原喜光さんの、ぐるっと360度 御中 |
昭和のことば「職人気質」(職人かたぎ)
昭和25年生まれの長男の私。父は6才の頃より石屋さんの丁稚奉公となり、小学校の6年間を過ごします。12才より畳屋さんに住み込み入門し、職人さんとなりますが、20才のころ召集令状がきて軍隊入門検査となりましたが、幼少のとき失った左目で失格となり、そのまま畳職を続け、30才のとき母と見合い結婚し、畳店を持つほどになり、私が生まれました。
当初は5~6人の職人さんを抱えるほどでしたが、職人気質というか、人並み以上の良い仕事をすることで人気はありましたが、商売人でない気質に合わせて、母の大病から相次ぐ祖父母の難病で私達兄弟三人は国から補助を受けるまで落ち込みました。
その父は65才まで趣味のような畳業をつづけ、去りましたが、芸術的な畳を作るとか、再生させる技(わざ)は、同業者の皆さんから絶賛されたものでした。
今は、ほとんど機械で作る畳ですが、お寺さんの仏間に敷かれる畳表や茣蓙など見ると、父の誇りというか、職人気質の、芸術作品を改めて感動するものです。
私達、兄弟三人は企業に勤め、年金世代となりましたが、戦後70年、国の為に戦った人々、焼け野原となった日本国の復興に汗と涙を踏み固め一生懸命に努力した人々。そして、その子供達が更なる努力を続け、経済大国日本という世界トップレベルに勝ち上げたのが私達シニア世代の皆さんと想うのです。
その私達の役割は、社会の中で出来ることをする!!ボランティア奉仕のハートはもちろんですが、社会で頑張っている若者を育てる環境から、地域に根ざした優しいハートを持ち、「おはよう」「こんにちは」のコミュニケーションの声かけを、私は実践しています。
2015.6.
福岡県築上町 スターコーンFMから聞いています
ラジオネーム 大和 (上瀧勇哲)
○○ 様 |
拝啓 暖かい春の季節になりましたこの頃ですが、北九州、行橋では、やっと桜の開花が始まり、今月末は満開となり、行橋「夢タウン」今川河畔遊歩道は、今からの夜桜が最高です。その夢タウンに勤めていたノブノブさんは、すぐそばの今川土手そばに5年間住んでいたのですね。
ノブノブ・ファミリーと過ごした楽しい時間は想い出となり、ホームページにたくさん組み込まれていますが、これからのファミリーは、大切な柱となることを期待しています。
さて、ご先祖様を迎える春のお彼岸では、檀家としている行橋「正山寺」生土昌行ご院家さん(40代)のお経を頂き、その後、洋子ちゃん(妻)の手料理で出席した皆さんとともに「いただきます」としてします。ミータンが居たときは、彼女が「いただきます」して、から始まることが多くありました。
ご院家さんと一緒にお食事をする、おもてなしは5年ほど前から続けられ、春の彼岸、母の命日(7月)、8月の盆、9月の彼岸、父の命日(12月)の年5度、正山寺さんが訪問される都度、洋子ちゃん手作りのメニューが変わりますね。
そして父、母が大好きだった手作りオハギは欠かせないものとして必ず仏壇にお供えします。ユーミンもオハギなど料理上手ですから、ぜひ甘えて作らせて下さい♡
さて、私65才、洋子ちゃん60才となり、ご近所、釣り仲間が皆そのような世代となりましたが「若人に迷惑かけないハート」で、もう少し頑張るつもりでいます。こちら方面に興味がある時は、ぜひ我が家でお泊りいただいて、ご案内できます。
今後ともノブノブ・ファミリーのご愛顧のほどよろしくお願いします。 敬具
2015.3.